ムダがあるのがちょうどいい

 日々デザインとかをしていると、編集行為が当たり前になっていて、どこかで無秩序なアウトプットを持ちたい!そんなわけでこのブログを始めました。このブログに重要な「情報」を求めている方は、特にないのでご注意を。このブログを書く時は構成も編集はほとんどせず、普段使っている編集脳から離れて、ただプライベートな自慰行為を文字という形でダラダラと吐き出す為に始めました。

 GOCCOを再開するにあたって、私にとってあの場所は重要な場所だったと感じています。当時のGOCCOは無駄なことに溢れていました。家の中に家を作ったり、新春エロ書道大会をやったり。簡易テントでいいところを、わざわざリアカー改造して外で出張カレー屋やったり……。その好奇心をそのままアウトプットしたようなコンテンツの数々が、アイデアの種で、それがいつの日にか線で繋がり、次のクリエイティブへとつながっていた気もします

 アイデア構築の理論はたくさんありますが、本当に自分が興奮するのは、何気ない日常の中で、ふとアイデアが降りてくる感覚。これはクリエイターなら誰しも経験していることだと思います。降りてくる瞬間、つまり関連性のない点と点が繋がり、線になる瞬間。そのひらめきは私の経験上、ほとんどが日常の中の無駄に宿っているんじゃないかと思います。散歩しているとき、運転しているとき、音楽に身を委ねているとき、誰かと話しているとき、お風呂に浸かりボォーっとしているとき…その瞬間は突如としてやってきます。これは脳の中の情報がバグを起こして、違う情報同士がくっついて、新しいものが生まれている、と私は解釈してるんですが。

 無駄といえば、20代の頃、コラージュの作品を大阪の狭苦しい自分のアトリエで制作していました。絵を描いては切り刻み画面に貼り付けて、あーじゃないこーじゃないと制作していました。側から見れば、本当にどうでもいい行為なんだけど、全く違う次元で描かれた形や素材がくっつくことに快感を覚えていました。当時彼女(現妻)は「どれが素材で、どれがゴミなの?」とよく言っていました。さらに「よし完成。」展覧会も迫り、搬出すると、その部屋に残るのは大量の素材の残骸。この部屋そのものと、発表する作品、どちらが本当の自分の表現なんだろう?と自問自答すると、確実にとっ散らかった自分の部屋でした。それら表現活動における一連の無駄さ加減の経験は私にとって重要でした。なぜならその無駄はその後の自分の価値観に影響を与えるものでしたから。

 世界は好奇心で前へ進んでいる。最近二歳の娘がお箸を使ってで食べることに執着している。スプーンやフォークを使った方が合理的に食べれるのに、娘は好奇心が優先されているようで、カレーも朝食のトースートも果敢に箸で挑んでいる。まぁ好きにすればいい。最近はそんな無駄をたくさん続ける娘から重要なことを教わることが多い。「スプーンを使った方がいいよ」とか教えるのが教育なら、私はやはり教育者には向いていないんでしょう。

 自然災害もパンデミックも私たちの平和な暮らしにとっては、うっとおしいことですが、異物が入ることで日常は新しい次元にたどり着くとポジティブに考えるしかありません。アフターコロナの世界観が各分野で議論されていますが、この異物をきっかけに世界が受けたダメージ以上に想像力に満ちた世界に私は期待してしまいます。現実的にはさほど変わらない世界が待っているのかもしれないけど。先日友人が「不要不急のことをどんどんやるのが人生だと思う」と言っていた。まさにその通りだと思う。

 

 

 

Tomohisa Kawauchi / Director